〈カジュアル美術館〉
夏休み明けの1962年9月1日。東京都渋谷区の実践女子学園中学校・高校では、張り詰めた空気がピークに達していた。

小林喜巳子《私たちの先生を返して実践女子学園の斗い》1964年木版、紙38.2×87.3センチ
敷地の周囲には鉄条網。学園側が雇った屈強なガードマンたちが校門でスクラムを組み、3人の男性教諭の入門を阻んだ。3人は組合活動を問題視され、数カ月前に解雇されていた。この中には、「リアリズム論争」などで美術評論家として知られた社会科教諭の林文雄(1911~2001年)もいた。待遇改善などを求める組合と学園側の対立は激化。3人の排除はその象徴だった。
「私たちは政治は全然分からなかった。でも、あんなに良い先生たちが急に解雇されて、とにかく取り戻さなきゃ、と。純粋でした」。当時高校2年生で、支援に立ち上がった大嶋夕子(81)はこう振り返る。

小林喜巳子が描いた場面を振り返る、実践女子学園卒業生の大嶋夕子=東京都世田谷区で
やがて、セーラー服の少女たちはガードマンの壁を押しのけ、人垣を作って通用門から3人を招き入れた。もみ合いで制服が破れ、けがをした生徒もいた。1000人近くの生徒が運動場で集会を開いた。
この場面を版画の作品にしたのが、林の妻で版画家の小林喜巳子(きみこ)(1929~2023年)だ。報道写真を参考に《私たちの先生を返して実践女子学園の斗(たたか)い》を制作。1965年の日本アンデパンダン展で発表した。
この中に、英雄のように描かれた個人はいない。輪の中心にいる「私たちの先生」を取り戻した主役は、画面の大部分を埋め尽くした名もなき生徒の一群だ。おかっぱ頭やお下げ髪が多く、厳格な校風を物語る。

個展で記念写真に収まる版画家の小林喜巳子、夫で美術評論家の林文雄(提供・大嶋夕子)
小林は東京・世田谷生まれ。幼くしてポリオ(小児まひ)で右手が不自由に。案じた両親が自立の手段につながればと絵を習わせ、東京美術学校(現・東京芸術大)の女子第1期生として1946年に入学した。
...
残り
759/1517 文字
この記事は会員限定です。エントリー会員(無料)に登録すると、続きを読めます。
無料会員に登録して読む
ログインする
無料会員(エントリー)に登録すると
会員限定記事を読める
有料会員限定記事も月3本まで読める
有料会員などの会員種別、登録手続きについて詳しく知る
よくある質問はこちら
